没落地主の末裔

追記、2017年4月上旬 …主に介護に関して

この投稿をアップしてから幾歳月、コチラの家庭事情も大幅に変わってきました。

この投稿をアップした当時、「日本残酷物語」をよく読んでいまして、その中で第一巻(貧しき人々のむれ)の「土佐梼原の乞食」(土佐源氏)が印象に残っていました。
…と言いますか、これが宮本常一氏のご先祖の記録(を脚色?)だと思ってましたが、違うのかそうなのか何ともですが、じゃあ自分も、という事で出来上がったのが、この投稿になります。
もちろん、宮本氏程の筆力は全く筆舌に尽くせる程無いので、母親…ウチは父親が入婿なので母親の姓を名乗っております…の話をまとめただけの文章ですが、ボチボチとWeb検索からこの投稿を訪れる方が後を絶たず(Botなのかなぁ、そっ閉じなのかなぁ)、その理由が分からず困惑しております。
このブログの何処かに書いていると思いますが、「日本残酷物語」を読んでいた頃は、フツーにサラリーマンしていた頃で、何と言うか「下には下が居たんだ」みたいな、今はそんな時代じゃないので、もうちょっと頑張ろうよオレ、みたいな…あくまでもバブル崩壊からリーマンショック前後の頃の話ですので、今とは全然違うと思いますが。
また、この書籍が出版された頃の社会事情…初版の話(ちなみに自分は父親の購入した初版でこの書籍を知りました)で、当時は赤いとか左寄りだったとか、再版でその辺は大月隆寛氏がコメントしていますので今とは違うと思いますが。

先に「コチラの家庭事情も大幅に変わった」と申しましたが、この投稿をアップした時点では両親とも健在でしたが、母親は3.11の直前に癌が発覚して翌年の夏、奇しくも母の実母、すなわち自分から見た祖母の命日、きれいな朝焼け、母親はようようしろくなりゆく水平線に向かって行ったのか、祖母と同じ様な死に様、死に顔で亡くなりました。1
今は2017年4月ですが、正直なトコロ、父親も厳しい…徐々に厳しくなるのが目に見えている、医師からもそう告げられている2 状況です。

そしてそれ以降が、やぁっとこのタイトルである「没落地主の末裔」である自分が、どうやって家を、墓を、その他モロモロを閉じてこの世から、この一族が生きていた証を法的に、物理的に消すのか?が主題になると思いますが(当時はそこまで考えて投稿した訳じゃないのですがね)、今暫く…数年スパンかと思いますが、お待ちいただければ、と思います。
我ながら酷い事を言ってると思いますが、少なくとも今の自分は、父親の介護(という程でも、いわゆる痴呆ではないので)の問題以上に、その先は自分しか居なくなる訳なので、その先を如何にするか?を考える日々が続いています。
自分も今年は半世紀生きた事になり、自分も母親も兄弟姉妹はいない(父親は兄弟が数名)、子供はおろか配偶者もおらず、という状況なので3 、この先配偶者を持つという事は考えにくい、と言うか、そこまで人生に希望…それが希望なのかと、そういう世間から見れば、ひねくれた思考の持ち主なのでしょうが、まぁそういう事です。
しかし今後、自分みたいな家庭が増えるのではないかなぁと思いますが。

ちなみに自分は「介護離職」と言うらしいですね…つい最近まで、言葉は聞いた事がある様な無い様な、でした。
2011年からずっとその状態が続いていますが、当初自分は「80・50問題」みたいな存在なのかと物凄くストレスが溜まりに溜まっていました。
ちょうど良いタイミングで「70歳まで働き退職後は家でゴロゴロする父について…30代・娘からの相談が色々と難しい問題かもしれない – Togetterまとめ4 を見ましたが、「親と同居、イコール、パラサイト?」みたいなイメージですのでねぇ…更に詮索されてニート?みたいにとらえられますしねぇ…
自分の場合は間違い無くそうですので、余計に。
なので、仕事を聞かれたら、「東京・中国に居たのですがね、これこれこういう事(親が癌である事)がありまして、パラサイトですわ、Hahaha」と自虐的に言ってましたけど…
きっかけはNHKの「認知症社会」という番組でしたが、それを知ってストンと腑に落ちたと言いますか、気が楽になったのは事実です…と言うか、それまでずっと燻っていました。5
40代で仕事の多くない地方に戻らざるを得なくなり、母親の癌の発覚後、父親も同様に癌が発覚、両親とも同じ病院の同じフロアの別の部屋に入院していたりと、ナカナカに笑えない状況でした。
ちょっと時系列を補足しますと、40歳を機に16年間勤めた会社を辞め、別の会社で2年間で放り出され(割りとありがちだと思います)、オタク仲間に誘われて中国厦門で中国人プログラマさんと一緒にWebサイト構築していた2011年の3.11前(「在厦门壮年、Zǎi Xiàmén Maturity」の頃)、ちょうど半年の就労ビザが切れるので一旦帰国の時に、母親の癌が発覚、中国に戻れず3.11を日本で迎える、という流れです。
その後、母親の介護は父親がメインで自分がサポートで、そして父親の介護は自分が、というのが、この追記を書いている状況です。
この様な状況でしたので、いつ親の容態が変わるやもしれずで、普通の会社員は絶望的、当然年齢的にも厳しい、しかも本来だと40代の一番ノリに乗っている…のは昭和脳のなせる技かもしれませんが…年代を介護で過ごすという。
なのでウチに篭もる事も多く、そうなるとマイナスのスパイラルが働き、イナカ故の近所の目もあり、更に色々と面倒になる…という状況です、でした。
多分に救われたのは、コワーキングスペースを知り、全然全然ですが、プログラマという自営業を名乗る事もできるのでは?というのがあったので、そこまで酷い状況に陥らずに済んでいます。
あくまで「精神的には」という枕詞が付いて、「稼ぎ」となると全くの別物ですが、それは自身の営業力の無さやら色々が絡んできますが。
逆に言うと独り者故の気楽さもあり、「そこまでして今更SIerに戻るかぁ? 木村何某みたく、SIerに親を殺されたのかの様な輩も居るあのセカイに…」みたいな…時代が恵まれていたと思いますが、自己申告分の残業代も青天井で出たし、様々な締め付けも今程キツくは無かったので、自分だけだと数年間は細々と食っていくには充分な蓄えがあったのも事実で、更には、親のゴニョゴニョ…まぁそれは自分を数年間拘束した報酬だと思っていますが、その様ないやらしい皮算用もあるのは事実です。
酷いですよ確かに。
でもねぇはっきりとここで書いておきますし、自分の遺言(遺言信託)にも書きますが、「親と同じ墓に入れるな、死んでまで親の面倒見たくないわ、と言うか、墓も戒名もいらんわ、遺体は解剖実習にでも使って後はそこら辺に棄てるか無縁仏にでもしてくれ」(あ、親まではキチンと世間様に恥ずかしくない様にやる事はやりますよ)という気持ちなのは事実です。

自分的には40歳でいわゆる定年退職した、これからは第二?第三?の人生だーみたいな気持ちもありますが、そのためには「没落地主の末裔 パート2(仮)」を済ませて身ぎれいにしてからでないと、ちょっと無理かなぁと考えております。

および念のため補足しますが、(おられないとは思いますが)私に介護関連の相談を持ちかけられても答えられません。
各々の家庭によって所与の条件は様々ですので、そこまでを考慮しないと答えられない問題だと考えております。
私は介護や福祉の専門家ではありませんので、自身の発言には全く責任を持てず、「お前に従ったがどうしてくれるこの状況」となっても私にはどうしようもありません。
その様な切羽詰まった状況の場合、役所の「地域連帯」の部署に駆け込んで下さい、としか。

ちなみに、「自分は介護中でして」という方と接した場合、言いたい事が二つあります。
一つ目は、「(これから、この先)、お前はどうするのだ」という質問をしないで下さい。
「しらんがな、誰のせいで今の自分がある」とは介護者は決して言えませんので。
自分の場合、知り合いにけしかけられたのか、父親が病床の最中、父親から「お前、自分の年金、どうするのだ」みたいな。
院内ですがさすがにキレて、看護師から注意を受けました。6
例えば、「○○病院が良い」「○○薬がある」「○○療法がある」みたいなYes/Noの質問だと聞き流せますが。(相手との立ち位置と精神状態による)
二つ目は、自身・肉親・知り合いの闘病の話をしないで下さい。
そう言われてムカッと来るとは思いますが、それが今、目の前の介護者に何の益があるのか?まで想像した上でお話下さい。
しかしそれを考慮しても、酷いとは思いますが、自分には「奴隷の鎖自慢」にしか聞こえませんし、自分はまさにその最前線の業界に居た訳ですので、それがどれだけみっともない事か骨身に染みていますので。
本筋からずれますが「コミュニケーション」の基本とは、「相手に何を言ったのか」ではなく、「相手にどう伝わったのか」ではないのでしょうかね。
となると「じゃぁどうすれば」ですが、自分には分かりません。
腫れ物触る様な態度を取られるのも、場が持ちませんしねぇ…あーあと「頑張って」も「これ以上何をどう頑張れと?」みたいになってダメみたいですね。

ついでにもう一つ挙げるとするならば、「○○しておけば良かったのに」ですかねぇ…自分には無かったですが、もしもこのセリフを言われたら結構厳しいモノを感じると思います。
いきなりであれ何であれ、最善を尽くしたかそうでないか、それは介護者とその家族のみが感じる心情ですので、それを選択した時点での5W1Hを知った上で無いと、言えないセリフかと思います。
なので介護者もその予備軍も、そういうのを避けるためにも、何か事態が悪い方向に進行していると感じたら、即座に役所の「地域連帯」の部署に駆け込んだ方が良いですよ、としか言えんのですよ…少なくとも自分の接している方々から本当に色々とアドバイスをいただいておりますので。
そして、そこから得られる選択肢の中から最善だと思うのを選ぶのは被介護者・介護者・その家族になるので、介護の主体である方は、介護行為そのものより、現状を事態を把握しておく、言ってしまえばプロジェクトマネージャの立ち位置を求められるのではないかと…理想論かもしれませんが。
それでも近頃思うのは、介護保険の役割って、被介護者のためである以上に、介護者の精神的・肉体的負担軽減にもなってるのではないかと強く感じております。

何だろ…基本、放っておいてもらった方が気が楽ではありますね。
例えば少し前、介護中?の親が死亡したまま放置しておいた、というニュースを聞いてぞっとしました。
一方で、死亡したのを隠しておいて親の年金を受け取っていた、みたいなのは論外かと思いますが。
このニュースを聞いて「自分だったら…どうする?」と自問自答して、ふと浮かんだのは「あー○○さんに夜中でも電話するんじゃないかオレ、と言うか、○○さんの方が親の病状詳しかったりしてな」でした。
この○○さんは、自分より一回り上の近所の遠縁の親戚(この投稿だと、「東所ひがっしょ」にあたり、正確には自分から見ると又従姉妹の関係)なのですが、チョット若い頃に色々ありまして、特に祖母、そして両親が色々を面倒を見ていたらしいので、その恩義を感じて色々と自分にもフォローしてくれています…余計な一言も言ったりもしますが。
例えば、たまに電話かけてきて「どんなカンジ?」みたいな。
他にも両親の仕事(両方とも小学校教諭)の同僚の中でも、特に親しくしていただいている方…いわゆる家族ぐるみの付き合い…がおられます。
これらニ家族は、父親も「もしもの時は連絡するように」という程には信頼している家族ですので、これは自分だけではどうしようもなく、自分より上の家族が如何にしてきたか?を問われる問題かとも思いますので、軽々しくこうすれば良いよ、とは言えない問題かと思います。
それから考えると、自分は非常に幸運な存在だと感じますし、できりゃご子息はコチラに余裕ができて向こうもそれを嫌がらないならなぁ、なのかなぁと思います。
一方のSNS利用に関しては、FacebookやTwitterでは言いにくいなぁというのがあります。
ただし自分は、10代後半から30代にかけて同人誌を創っていましたので、その時のオタク仲間(ほぼ自分と同年代で東京在住、何故か独身男性がほとんど)が、主に利用している(あの)Mixiのつぶやき…コミュニティではなく…では、ここに書けない様な生々しい話題を投稿しています。
自分もオタク仲間の近況をそこまで知らなかったのですが、痴呆の親を介護していたりと、自分とは別の方面で大変だったのだなぁと。

以上、とても長くなりましたが。

2017/04/12

賞詞

病院船
吉野丸
一等運轉士 ○○○○

右者昭和十五年五月以来病院船乗組員トシテ繁劇ナル患者輸送ニ任シ現在ニ至ル昭和十七年二月二十七日西貢ニ於テ患者ヲ搭載シ今日出港廣東向時速十二節ヲ以テ航行中三月二日十六時三十六分頃北緯十九度五十五分東経百十三度五十五分ノ海面ニ差カカルヤ右運転士ハ突然見張員ヨリ本船前方二〇〇米ノ距離ニ浮流機雷アリノ急報ニ接ス
右ノ報告ニ接シタル運轉士ハ間髪ヲ入レス「面舵一杯」ヲ令シ次テ浮流機雷船首左舷側ニ接近スルヤ機を失セス「取舵一杯」ヲ令シ危機一髪ニテ搭載人員並ニ本船ノ保安ヲ全ウセシメタリ
右ノ行為ハ旺盛ナル責任観念ト緊張セル當直勤務並卓越セル操船技術ニ依ルモノトシテ一般船員ノ模範トスルニ足ル
仍而茲ニ賞詞ヲ與フ
昭和十七年十月十九日
船舶司令官陸軍中将 従四位勲二等功四級 ○○○○

自分の祖父の話。
海外航路の船乗りやっていて、先の戦争中、軍に徴用されたらしい。
この船の話だと思うが、母親が実際に乗船したらしく、凄い絨毯だった、一等航海士の個室が凄かった、とか。
上記の文章は、今まで実家に飾ってあったが全く気にも留めなかった賞状というか賞詞。
改めて見てみると、陸軍に徴用されたんだなと。
その後、この船は昭和19年7月末に撃沈されるが、その時、祖父がこの船に乗船していたかどうかは不明。
…ではあるが、日本郵船歴史博物館で資料を漁れば出てくる。と言うか、実際調べた。
その時にコピーした記事は実家に送った。
一等航海士やってたからか、船長が病気でダウンした時、一時的に替わりに船長やった、と資料に書いてあった。

2009/01/02

googleでmorry書店

ワタシの本名を知ってるヒトは、それでgoogleして最初に出てくる書店…東京大学の近辺…、どうもオイラの曽祖父の弟が東京に出て店を開いての3代目、つまり自分の母と同じ世代のヒトが主人やってる、らしい。

母親からは、曽祖父の弟が東京に出て本屋をやってるとは聞いていたのだが、まさかネットで簡単に見付かるとは思わなかった。
大方、地震や空襲であぼんしたんじゃないかとか、周辺の古い地図を漁って、とまでは想定していたのだが、実にあっけなく見付かった。
実際に店まで行ったのだが、Web専門の本屋をやってるみたいでご主人には会えなかった。
とは言え、会って話するにしても「いやいや、怪しい者じゃないですよ、ウヒャヒャ」となりかねないので、その辺は母に話を振っておいた結果、コンタクトできたみたいで、こちらからメールを出してその返事が返ってきたトコロ。

かなり特殊なコトをやってるみたいで、

弊店は近代作家の草稿・書簡・書画類や稀覯本、そして山岳関連書籍を取り扱う古書店です。特に力を入れているのは、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫などの近代作家の肉筆物、また、槙有恒、 …

だとか。
いやーさすが、没落地主の末裔、道楽者っぽく押さえるトコロは押さえてるなぁ…
ちなみに、morryという苗字は母方の姓なんだな。あまりこういう事考えた事無かったけど。

2007/03/06

世界一受けたい授業」で、このページでは大久保利通の話だが、この授業のコマで夏目漱石のネタがあり、その時、この書店がちらっと出てきたそうだ。
今回実家に戻った折、この書店が実家にカタログを送ってきて、それを見たのだが、例えば宮沢賢治の葉書が100万だったりと、一体誰が買うのか(w、分からない代物だった。近々会うと思う。

2009/01/02

祖母の実家周辺

実家から歩いて10分程度。

2005/01/01

没落地主の末裔

昔から母がそういう事を言っていたのだが、自分は真面目に聞いておらず、それは「morry家本家の話で、自分トコロは分家か何かでしょ」と思っていた、今までは。

ところが昨晩、母が「いやウチの事で」な感じで、つまりそれは「俺の先祖が地主で、ここがmorry家の本家で、そこが没落して、俺はその次期当主なのかぁ」と軽くショックを受けた。
大体からして、地主らしい雰囲気なんか全く無いし、実家。
例えば、蔵はともかく、実家近辺の古くからの民家|農家は、庭を納屋で囲むような生垣の無い造りになっているのがほとんどなのだが、実家はそういう雰囲気でも無いし。
あ、強いて言えば、物置の奥に刀があったような無かったような。
…と、栄枯盛衰も甚だしいので、よっぽどコテンパンにヤラれたんだろうなぁと思ったのだが、やはりそうだった。

そもそもの疑問は「何時からここに住み始めるようになったのか?」という何を今更な質問を母にした回答で判明した、と言うか、認識した。

話は、自分から見て母方の父の父の代、曽祖父にまで遡る。
勿論それ以前からそうだったと思うが、その辺は町史あたりを漁れば分かるかもしれない。
曽祖父は国鉄の運転手だったらしく、その時点でとりあえず今の土地に家を構えた。
それは今の自宅を建て直す前の、当然自分の記憶にもあるし21歳まで住んでいた。数年前まではよく夢で見たが。
赴任地は奈良県だったみたいで、自分が子供の頃、近所の老人が自分の家の事を「奈良屋」と言っていた事を思い出した。
その祖父は、お召し列車(御乗用列車?)を運転したとかで、これ、少なくとも当時は誰でも運転できるものでも無いのだとか。(母親談)
何故実家を出なければならなかったのか7 、詳しく聞いていなかったが、実家を離れて今の土地に家を作り、一方で奈良で仕事をしていたので、他人に貸していたが、やっと住み始めたのだが急死した。
その後を継いで祖父が住むのだが、当時祖父は神戸高等商船学校の学生8 であり、海外航路の航海士の仕事が待っていたので、ここもはっきりしないが、危険な仕事なのとアチコチの港に愛人を作って云々良くない、みたいなカンジでお互いに学生だったが祖母と結婚して9 、祖母が実家を守る事になった。

話がややこしくなるのは曽祖父の代の話で、祖父は先妻の子供で先妻が亡くなり、その後曽祖父は後妻を娶り、お馴染みの泥沼、みたいなのも要因としてあると思う一方で、曽祖父以前に単に放蕩し過ぎたり10、それこそ今で言うメード、女中に手を出したり11 、みたいなのもあったが、決定的なのは、戦後の農地改革で全て失ったのだろうかと母親の話から推測される。
全くイメージ沸かないが、15町12 の土地があったとか無かったとか…

その曽祖父までの墓は、以前に曽祖父が住んでいた近くにある。自分達が入るのは祖父の代からの墓で、これは今回リフォーム?した墓で、別の場所にある。これは単に物理的に墓地が無い、という問題らしい。
なので墓参りは通常、2箇所参らなければならないのと、古い墓、次に新しい墓、という順番を守らないとよろしくないらしい。

一方の祖母も地主の分家筋で、更に話をややこしくしているのは、祖母の方も先妻・後妻云々らしく、話していた母親も「家系図書いておかないといけない」と言っていたが、その通りですお願いします母上殿。
更に養子縁組や祖父・祖母の間での近親婚じゃないだろうけどそういうのもあるみたいだし。13
実際、地元の近所は何等かのカタチで血が繋がっているのが結構多い。自分達の代にまでなると32分の1以下程度だし、今の世代がそこまで知ってるかどうかも不明だが。
一方では同じ苗字でも、かつての戸籍の改正だかでmorryという苗字を名乗りだしたとかで、血が繋がっていない、というのもある。
祖母の本家は、例えば、淡河疎水に尽力を尽くしたとかで、石碑に名前が載っているとの事。
しかし、この辺に最初に住み始めたのは、「元所もとしょ」と言われてる家系で、祖母の方を「西所にっしょ」、対して、「東所ひがっしょ」、というのもあり、それはどうやらmorry家の事では無いらしいが14 、さすがに実家の事で手一杯なので一体どういう系図なのか良く理解できなかった。

父の話が出てこないが、父は入り婿なので。
ところが、父の実家は山持ちの地主の末っ子で当時、見合い結婚させられそうになったのを逃げてきたとか。
これは母が付き合い始めてから知ったとの事。
この件に関しては、父方の母親、自分から見て祖母はかなり反対していたらしい。そりゃそうだろうな、と思う。見合い相手もそれなりの家だそうだし。自分は年上の従兄弟・従姉妹がいる親父の実家に行くのが楽しかったが、そういう確執もあったんだなぁと…
父方の父親、祖父は、県立農業高校、県農を出て地元丹波で教師をやっていたらしい。失礼な話だが、今でこそ県農はぱっとしないが当時は、そういう子弟が行く学校だったらしい。
書いていて思い出したのだが、自分がまだ1桁代の頃、母・祖父・祖母が丹波に行く様子を収めたモノクロの8mmを見た記憶があるような無いような…
しかしもし、父がそのまま見合いして結婚していたら、自分って…生まれていたのだろうか(笑
この様に、結婚に関してはmorry家は結構アナーキーな事をやっている。祖父・祖母は学生結婚15 、両親は父が転がり込んだみたいなもの(母親談)だし。
じゃぁ俺は、と言えば、例えば60代になって20歳そこそこの娘さんと(ry

その話を聞きながら、母が昔の写真を引っ張り出してきて見ていたのだが、自分には答えにくかったが、祖母は目鼻立ちが整った結構美人だったとか。祖父も中々の男前に見えなくも無い。
笑い話になるが、自分が小学生の頃、母が周りに自分を弟、と言っていたらしく16 、周りは余程複雑な家庭事情があると信じてしまったくらいなので、あながち祖母が美人というのも嘘でもないと思う。
それ以前の祖母の祖母・祖母の親(20歳代)の写真もあり、確かに血筋を感じる一方で、如何にも江戸末期・明治の女性だなぁ、という雰囲気だった。
母親が3歳くらいの時、母の祖父と撮った写真、どうやらあやめ池付近らしいが、母親の祖父が丸眼鏡をかけた着物姿で、昔の日本は本当に着物を着ていたのだな、と思った。
他にも、祖父の仕事の都合で横浜に住んでいた頃の祖母・母の写真や、祖父の勤務中の写真17 、台湾に行った時の写真等が出てきた。

そういう話を母から聞きながら今回、3件程タスクを受け取った。

簡単なのから行くと、曽祖父の弟が東京大学、当時は東京帝国大学の近くで本屋をやっていたらしい。
母が言うには現在音信不通らしい。
関東大震災や、攻撃対象だったのか分からないが東京大空襲でどのようになったのか不明だが、探せば何とかなるかもしれないかな、という気はしている。

2件目は、戦中・戦後、よんどころない事情から、縁を切られた様な形になった女性が東京に居るが18 、存命なのかどうか。
住所は分かっている。自分も世紀末に一度会いに行った。しかし、今、生きていたら100歳超えてるので、さてどうしたものかと。

3件目は祖父に関して。
戦中も船乗り(航海士)だったので、輸送船や病院船に乗っていた。
3回米軍の攻撃で船を沈められたが生き残り、戦艦大和の最後の航海の時には、輸送船の船長として随伴したが、新米船長という事で後方に居たので大和が沈んだ後に引き返してきた。
戦後は朝鮮戦争でLSTに乗っていた。19
その後、陸に上がったが最終的には水先案内人をやっていた。20
その戦中の話になるが、五摂家のうち、戦中に首相を何度か経験した某の長男21 と祖父が写った写真がある。
おそらくは中国への輸送中に撮ったのだと思われる。
この写真の存在は前から知っていて、某家に連絡を取りたいと思っていたが、どう考えても無理じゃないかという事で諦めていた。しかし、ちょっと変わったルートの存在が思い付いたのでそちらからアプローチしてみようかと思っている。
これに関しては、母も自分も純粋に、どちらかと言うと「お返ししたい」みたいな。
他にも、サーベルを持った軍人と祖父を含めた船員が並んで写っている写真もあり、今まで戦争は全く別の世界の話だと思っていたが、何か急に手の届く所にあったのだと実感した。

話は変わるが、自分の大学の学資資金は祖母が払っていた、というのを数年前に知り、ぞっとした、というと変だが、「マジメにバカやってて良かった」と言うか、如何にも大学生なノリで楽しかった、という記憶や思い出があって、有意義に過ごせて良かった、と思った。
その資金は何処から出たか、と言うと、祖母の年金、祖父の船員保険、祖母の息子(養子、戦死)の恩給、この辺から捻出されたと思っている。
つまりは当時、人生の途中で生きることのできなかった人々や人生を全うした人々のお陰で大学に行けたのだと思うと、自分が今居るのは分断された歴史の中に存在するのではなく、偶然・必然の連鎖の中での一つの選択肢の中を生きているのだと認識した。

…と、他の家族もそうかと思うが、実家も意外とドラマチックな家系だと思った。
ネットにこういう情報を流すのもどうか、と思うが敢えて掲載に踏み切った。

2007/02/11

お施餓鬼…せがき

朝も早くから(7:30~)円光寺に檀家が集まり、戒名板というやつを受け取り、お布施を渡す集まりに参加。
実家は祖父まで・以後の2箇所に墓が分かれており、祖父まで(= 曽祖父以前)の墓のために。
今までは母が行ってたらしいが、せっかくなので参加した次第。

かつて田圃一丁を献上?して永代供養したそうで、その金額故に順番が一番早いのは助かる。
なんだが、自分初めてで、こういう冠婚葬祭って他人をマネれば良いのだけどそういうコトができず、周りの爺さん連中に色々と。さすがにこの時だけは先祖を恨んだ(笑。
どうやら母が事前に寺側に連絡しておいてくれたので何事も無かった…筈だけど、いい恥かいて来た。

で、話しかけてくる爺さんが居て、どうやら東大赤門前のMorry書店を知ってる爺さんだった。
戦時中その爺さん、近衛師団だかに所属していて、たまたまなのか知ってたのか訪れたそうだ。
他、参加者は爺さん連中ばっかかと思ったら、意外にも若い連中が結構居て、生活の中に宗教が溶け込んでるのだなと感じた。

2007/08/07
補足。当時実家で引き篭もっていました。

墓の話

祖母の十三回忌で実家に戻り、墓所で母が「墓を建て替える」だったか、そういう事を言っていた。
墓地を「凸」で表すと、上に突き出た部分が墓石で、下の土台が逆「へ」の字型になってしまった、土砂崩れを起こしたみたいで、それをどうにかしたい、と前々から言ってた気がする。
実際その辺、疎いので分からないのだが、ウチの宗派で、そもそも土台がある事自体おかしい、みたいなカンジで、「だったら何で作る時に…」と思ったのだが。

費用は母親が退職金を注ぎ込むという事だが、一人で墓の代金払うのは良くないので、自分にも出して欲しい、と言われ、まぁ…将来間違いなくそこに入るだろうから、という事で、出るか出ないか分からないが冬ボを充てる事にした。
話によると五輪塔もこの際作るとかで、そこに自分の名前を入れる、とまで言うので、全く出さない訳にもいかないし。
ちなみに父が全く出てこないが、母の言い分としては父は他所のヒトだし、前に出してもらったり戒名盤?だったかに名前あるし、みたいな、そういうメンタリティは分からなくも無い。

「ぼったくられんよーせなあかんで」とクギを刺しておいたのだが、母も知り合いの祈祷師?22 経由で、加古川でも、まぁ割と有名な寺院に出入りしてる業者を紹介され、そこの住職も母と高校の同級なので変な雲行きにはならないと思ってるが。
今日、業者が見積りを持って来たらしく、どうしても自分の業界を基準に考えると「人件費」が一番大きなウエイトを占めると思うのだが、ガテンな業界ではそうでなく、材料費の羅列で、そこに人件費がincludeされてるのか、良く分からなかった。
ちなみに、気になる予算だが、そこそこの新車1台分程度23 で自分は1割程度の負担。

実家の墓、(おそらく)祖父以前と祖父以降で2箇所あり、墓参りの時は2箇所の掃除になる。単に墓地が手狭になり、地区で共同の墓地を作った時に移さなかったのか移せなかったのか…良く分からないけど。
また、移そうとしたら突然雷が鳴り出して大雨になったとか云々かんぬんで、あーこれ、自分の代でどうにかしないといけないのかなぁ…と思わなくも無い。
この墓石には地蔵さん?が乗ってるのだが、首が無いのは不憫ではありますまいかと母に聞いた所、放っておくしかないみたいな事を言っていた。

そう言えば、近頃変な事に気付いたのだが、この辺と言うか、都会って墓が無いなぁ、と。
この辺、寺院の中や○○霊園、みたいなのはあるけど、自分の実家の場合、そこら辺に墓地があって景色に溶け込んでしまい気付かない。で、大抵は地区と地区の境目辺りにあるんじゃないか。逆に寺院の中に墓がある、という印象が全く無い。

…と歳相応の話のついでに、「○○が夢枕に立つ」とよく子供の頃から聞かされていたのだが、その辺の感覚が何となく分かってきた気がしなくもない。
いや、別に自分が寝てる姿を枕元から○○が見下ろしてる、みたいな構図じゃぁないけど。
祖母、つまり母の母の夢を良く見る、と母に言ったら驚かれて、「私なんか一回も見た事無い、あんたおばあちゃんに守られてるから」みたいなカンジで、心理学的には見ている自分に何等かの原因があると思うのだが、母は逆で、あくまでも祖母が能動的に、みたいな発想なのはさすがに自分とは違うなぁと思った。

2006/11/18

墓のリフォーム

実家の墓をリフォーム?したとかで見学した。
土台部分が約30cmだったのが10cm程度に低くなり、左から、墓標?、いわゆる墓(夫婦墓?)、五輪塔、水子地蔵、という、並びになっていた。
墓標を見ると、(母方の)祖父・祖母、私の兄、3歳上の姉が確認できる。

俺は親の家族計画を知らないが、もしかしたら上に居たかもしれないし、一方で、もしかしたら生まれていなかったのだろうかと思わなくは無い。不思議だなぁと思う。しかも、祖父・姉が死んで、その1年後程度に自分が生まれたらしい。
しかし、考えたところでどうにもならないし、実際にこうやって生きてる以上、これが事実なんだな、と思う。
なんで、軽々しくくたばる訳にもいかんのですよ。
親にも、上2人にも申し訳ないし。

2007/02/11

祖母のこと

自分がこういう事をやり始めてから、ケジメとして書きたいとは思っていたのだが、何分夏は苦手なのでいつも書きそびれていた話題に関して。

昔のリフィルを見てみると、1994年8月28日(日)の欄に「City 晴海」(多分Comic Cityの事)と共に
「13:00頃 祖母トシエ永眠」
と書いてある。
実に偶然の積み重ねだったと思う。
当時メインフレームのオペレータをやっていて、自分は夏休みを取るつもりは無かったのだが、周りの薦めもあって取って実家に戻った。
で、確か26日に戻って来て、28日に出発するつもりだった。
当然、数年前から入退院を繰り返していて祖母の調子が悪いのは知っていたが、こればかりは仕方ない。
出発日の28日朝、寝ている私に母の「おばあちゃんの様子がおかしい」で起こされた。いよいよかと覚悟をした。
父は当日どうしても外せない仕事があり、昼頃にならないと戻れないので出かけた。
自分は祖母の枕元でずっと手を握っていた。
親類が集まって来た。ダメか、みたいな話題をしている。薄情かと思うかもしれないが、今となっては本人も覚悟を決めていたと思うし、自分も覚悟を決めていたので自分は薄情だとは思わない。
末期の水、じゃ無いけど、どうやら祖母が好きだったのか、サイダーを飲ませたりしていた。今もサイダーを見るとその事を思い出すので飲めない。
父が仕事から帰って来て、祖母の枕元で話しかけていた。
その数分後、祖母は息を引き取った。多少強く息を吸った後、脈が無くなった。
後は女性の出番なので自分は部屋を出た。窓から見えた入道雲の印象が強く残っている。実際暑い夏だった。この年は同じ様に無くなった老人が多いとも聞く。
その後、かかりつけの医師に来てもらい、死亡証明書?を書いてもらった。

通夜の晩、祖母が単に寝てるだけにしか見えないので、本当に死んでるのかと思うと悪いけど怖かった。

葬式の事はほとんど覚えていない。一応、主催する側の一員なので忙しかった事だけは覚えている。
強いて言えば、母の職場の同僚が自分の小・中学校の先生だったので懐かしいなぁという事、喪主である父はさすがに大勢の前で喋り慣れてるな、だろうか。
そう言えば、親父に誉められたな、色々と手伝った事に関して。
それと、葬式というのは死者のためでなく生きていく者のためにあるのだな、と思った。

「四十九日はな、死んだヒトが…」
内容は忘れた。親戚が子供に向かってそんな事を言っていた印象があったのだろうか、正確には覚えていないが、多少間を開けて、自分は祖母に「おばぁちゃんごめん」と泣きながら謝ってる夢を見た。祖母は何も言わなかった。どんな表情だったかも覚えていない。
何故謝ってるのかというと、自分が東京に出て来なかったら、もう少し長く祖母が生きれたのではないかという良心の呵責、というやつである。格好良く言ってしまえば。
両親は共働きで自分はいわゆる「おばぁちゃん子」なので、自分が家を出てしまえば、祖母の心の支え、みたいなものが無くなるのは確かだと思ってたし、実際、東京に出て2年経った後位から入退院を繰り返し始めた。
それでも、周りのヒトは意外だ、と映ったらしい。それなりに散歩もしていたみたいだし。
東京に出る段階で、そういう予感はあった。けど、自分には自分の生き方がある以上、どうしても譲れない所だった。
それでも、卒業前に友人宅でベロンベロンに酔って大泣きしながらこういう事を言っていた事もあった。
数年前まで母には言ってなかったのだが、何かのきかっけでこういう事があった、と言ったら、感心してたような気がした。
「夢枕に立つ」というのがそういう事なのかもしれない。

葬式の後、父が興味深い事を言っていた。
「入院してても今まで我侭だったのに、今回(= 死ぬ直前の入院)は、大人しく看護婦さんの言う事聞いていた」
その後に
「家で死ぬつもりだったのかもしれないな、ここ1ヶ月はほとんど食べなかったし」
とまで言ったのかは今は定かではない。
いずれにせよ、祖母に向かって何だが「立派な死に方」だと思っている。痴呆も無かったし。逆に言うと、ここまで努力しなければ、自分の死に場所も決められないのかとも思う。

その次の年、関西で地震があり東京でサリンがあり、自分はホノルルに行った。多分、祖母が生きていたら、余程強く反対されていたか24 、死に際に会えなかったかもしれない。

祖母は、日本郵船の海外航路の一等航海士をやっていた祖父に付き添い、横浜に住んだり台湾に行った、とか聞いた記憶がある。日本郵船に関して、数年前に横浜の日本郵船の記念館に行った事がある。探せば祖父の名前は見つかったかもしれない。
つまり当時で言うパイロットというやつで、それはそれはハイカラな職業だったらしい。戦時中は死亡はしなかったが、病院船に乗っていて、米国の軍艦の魚雷にやられたらしい。今年母が「NHKで輸送船(あるいは病院船の吉野丸?)の特集があるから見ろ」とか言われたが、仕事中だったので見れなかった。
また、明らかにはしないが、さる高貴な方と共に映った写真がある。確か樺太方面に行く時に撮った写真だとか。
ちなみに、戦時中、船員の死亡率は兵員よりも高かったらしい。故にか、船員の恩給があり、年金と共に祖母は受け取っていた。
丘に上がってからは水先案内人をしていたとかで、末期の癌で他界した。
祖父は自分が生まれる前に他界したが、確実に隔世遺伝が自分に流れてるな、という気がする。

ホノルルに行く前に、戦時中、いわゆるレッドパージ(とは当時言わなかった)で、特高にマークされていたしそういう関係で放り込まれていた事もある、ある意味歴戦の勇士ではあるが、実家からは絶縁されている、自分から見たらどういう関係に当たるのかは分からないが、そういう親戚の叔母さんに会った。神宮あたりに住んでいる。今はどうなのかは知らない。自分の親の世代が会うには抵抗があるかもしれないが、自分とは無関係なので。
母から何度も、何処何処の誰々はどういう関係で、と親戚関係を説明されるのだが、未だに全く理解できない。

今では、建て直す前の実家や祖母の夢も見なくなったが、そういう事もあった、という事で。

2004/08/28

ローカルな話

実家周辺の歴史の本を読んでいる。ちなみに実家周辺は古墳が多いので25 、西暦200年頃から中世・近世にかけての本。

兵庫県加古郡というのは播磨町の地図を見てもらえば分かるように、播磨町と稲美町は接していない事が前々から不思議だった。

で、この本を読んでいて、明石(= 赤石)川から加古川以東周辺を大昔、日本書紀古事記播磨国風土記が書かれた頃、賀古郡と言っていたらしい。それが時代を経て、現在の加古郡として存命しているのがこの2町だけなのかな、と思った次第。

ちなみに、播磨町の歴史は、西暦200年頃から、稲美町の歴史(pdf)は西暦644年から始まってるのに対して、当時自分が住んでいた小金井市の歴史は実質江戸時代から。
稲美町の歴史を読んでいると、

1445年 赤松氏亡び幸竹にのがれて住む者あり

とあるので、その頃には祖母の実家周辺にはヒトが住んでいたらしい。

ところで、万葉集

香久山と 耳梨山と あひし時 立ちて 見に来し 印南国原 (巻一の十四)

というのがあるらしく、香久山・耳梨山(・畝傍山)は大和三山と言うらしいが、「印南国原」を実家周辺だとしても、何故に奈良の山に混じってるのだろうか? と言ってるヒトもいるらしい。と言うか「印南国原」って何処やねん、と。
そうでなくとも万葉集には「印南」という記述がそこそこ?ある。

補足。和歌山県日高郡印南町

ところで、稲美町は昔から稲美町だった訳でなく、母里もり村・加古村・天満村が合併して稲美町になった。
「稲美」の由来は調べて無いが「印南」の当て字と言うか、古式ゆかしく由緒正しい名前ではない筈。なのだが、「稲美町印南」という地名もあるし、印南郡は存在して、こちらが大昔からの本家みたいなカンジ。今は無いが。

とまぁ、どうでも良い事なのだが、意外と大昔の事は分かっていない事が多いらしい。
自分としては、「現存するシステムとそれを記述したドキュメントが度重なる改修で、ドキュメントとしての価値が全く無くなったシステム」に対峙してるみたいで楽しい。それに歴史だけで言うならば○○(censored)に比べて歴史だけは古い、という事が言いたい訳では無い(笑。

仮にドキュメント化されていても為政者の手で書き換えられた可能性もある。と言うか古事記・日本書紀では、ご当地の加古川周辺出身だとされているヤマトタケル26 の記述に違いがあるらしい。
なので、もしかしたら翼人というのは本当に居たのかもしれない。訳は無いと思うが。

2005/10/26

日本郵船(株)/歴史資料館

自分が生まれる前に死んだ母方の祖父は、日本郵船の船乗りをやっていた、と母から何度も聞かされていた。
それが何かの機会にこういう資料館がある事を知って、いつかは行こうと思っていたので今日行って来た。

明治・大正・戦前・戦中・戦後、と日に影に日本を支えて来て、現在はコンテナ・トラック・鉄道による貨物輸送…とか。
そー言えば小学校の頃、日本は加工貿易国だと勉強したよなぁ。
前に読んだ「太平洋戦争 日本の敗因」によると、戦中の輸送船の船員死亡率は50%27 とか書いてあったが、その当時、病院船(?)の吉野丸に乗っていたとか、新人船長なので激戦地には投入されなかった28 とか、朝鮮戦争の時は米軍のLSTに乗っていたとか母から聞いていた。
船員名簿は昭和32年から置いていたのだったが、それ以前に既に丘の業務に付いていたらしい。
それにしても、横浜はモダンやねぇ。神戸とは違うわ。神戸を2倍以上の広さにした様なカンジがする。土地も道路も。
祖父はベイブリッジ29 なんかができる事なんぞ想像していたのであろうか?

2000/03/25

Footnotes

  1. 1. 病床で母親が死ぬ直前、足元に「何か」…例えて言うなら光学迷彩を着た何か…が来て消えた、みたいな印象が強く残っています。それと、通夜か葬儀だったか、死に水と言うのか、唇を榊だったか水で湿らせるけど、その時、母親の口が動いたと周りの女性陣が声を上げてびっくりしていました…自分は見ていませんが、死後硬直だったのかもしれません。

  2. 2. これに関して、本人含めていきなり宣告するのが良いのかどうなのか…自分には何とも言えません。ウチは父親も母親も自分と同席の時に宣告されましたが、その事を知り合いに教えると、「いきなりはどうなのかぁ、まず家族、次いでその家族が本人に伝えるかどうかを選択するじゃないの?」と言われましたが、今更今の自分にはどうしようも無いですので。

  3. 3. うーん何だろ、morry家って「細い」と言うか何と言うか、もしかしてご先祖の過去の行状か何かで恨まれてんのか祟られてんのかなぁと。と言っても、妙な祈祷師にお祓いとかしませんけど。母親はちょっとそのケがありましたが、自分はこれからもっと酷い事をしますしねぇ。

  4. 4. コメント読んでいて思ったのは、間違い無く自分は血も涙も無い鬼畜の側の人間です。特に終活云々に関しては。でもなぁ、娘さんが親に終活してさっさと逝けと思ってるんじゃ、みたいな意見はちょっとあんまりじゃぁないか(それはコメント主の秘めたる願望じゃなく?)と思いますがね。

  5. 5. ただし、番組そのものは、将来、カネとコネで何とでもなりそうな連中(現場のスタッフはともかく、出演者や番組構成スタッフ含めて)が、オランダでは、みたいな出羽守されましても、だから何なんだと何の共感も得られず、うがった見方をすれば、若者ども、お前ら俺らの面倒をきっちりと見やがれ、でないとタイヘンな事になるぞ(なってるし)、という、嫌悪感しか残りませんでしたが。

  6. 6. バブルの頃の掛率の良い個人年金を二本、支払えないので解約した。

  7. 7. 単に長男で無かったとか?

  8. 8. 母親が言うには、継母と折り合いが悪く、ともかく家を出たかったらしい。

  9. 9. 担保代わり?

  10. 10. 勧進相撲をやったり…

  11. 11. これは…祖母の家筋の方かも。

  12. 12. 1反(=300坪)×10(1町=10反)×15?

  13. 13. 自分も祖母の本家筋の女性を紹介された。

  14. 14. 色々あって東所は祖母が親代わりになって今も付き合いがある。

  15. 15. 言っておきますが戦前の、です。

  16. 16. サザエさんとカツオの関係、つまり、祖母が母親になる、みたいな。

  17. 17. 船の中で写真の現像に貴重な水を使うのってどうよと思うが。

  18. 18. おそらくは祖父の姉にあたる。それでも墓は立てたらしく、名前が残っている。

  19. 19. 当時祖父が米軍から貰い受けたCレーションがとても美味しかったと母が言っていた。

  20. 20. 稼ぎの良い石油タンカー関連に転職しようとしたらしいが、嫁(=自分から見て祖母)に危険だからと反対された事もあるらしい。

  21. 21. 今、某を見ているが確かに顔立ちが似ている。

  22. 22. この段階で、既にどうかと思うが…

  23. 23. 前提として墓地・永代供養料は既に払ってる…筈

  24. 24. でも行ったと思う。

  25. 25. 有名所では大中遺跡

  26. 26. 固有名詞ではなく、集団名じゃないかという説あり。

  27. 27. うろ覚え。確か軍人より高いとも書いてあった筈。展示によると昭和19年が一番座礁・大破が多かった。

  28. 28. 母は、沖縄に戦艦大和と帆走(?)したとか言ってた。よく生きていたなぁ、と思う。

  29. 29. 祖母と一時期、横浜に住んでいたらしい。